『戦国自衛隊』半村良

 埼玉ののどかな田園地帯を突如揺るがす無気味な地響き――。やがて轟音とともに威容を現わしたのは、何十台と連なる戦車群! 慌てふためく沿道の市民に 対して
怖がらないでください、皆さんの自衛隊です。ロボット退治にやって参りました!
 と高らかに呼びかける。そう、秩父山中に突如謎の巨大ロボットが出現、その進撃を食い止めるべく出動したのである。
 先頭の指揮車に乗り込んだ指揮官が
「景気付けにミュージックだ」
 と命ずるや、スピーカーから流れ出たのは名曲「怪獣大戦争マーチ」! 勇壮なマーチに乗って進軍する頼もしい部下たちの車列を振り返り、
「お前ら、自衛隊に入った甲斐があったな」
 と不敵に笑う指揮官は、きびきびと迎撃体制の布陣を指示する(その充実しきった表情を見よ)頭上を一足先に飛行していく空自の戦闘機編隊に向かって、
俺たちの仕事も取っとけよお!
 と拳を突き上げる――。
 これは劇場用長編アニメ『クレヨンしんちゃん/爆発! 温泉ワクワク大決戦』の1シークエンスである。僕がこれを初めて観たのは、あ る怪獣映画に関する イヴェント会場でのことなのだが、そのあまりの雄々しさに、観客が一斉にどよめいたのを覚えている。
 この、表向きは幼児向けを装った(出来上がった作品を観ていると、とてもそうとは思えないことがしばしばだが)ギャグアニメのワンシーンは、しかし演出 の冴えとも相俟って、どこか切実な感動すら呼び起こしてくれる。なぜならそこにあるのは、憲法解釈の狭間で翻弄されてきた自衛隊が唯一公然と戦闘を許され る〈怪獣映画〉という処を得て、ようやく自己の存在意義を確かめている姿だからである。
 思えば自衛隊という戦闘集団は昭和29年の発足以来(奇しくも『ゴジラ』第1作の製作公開された年だ)、常に中途半端な――ある意味「透明な」――存在 であることを強いられてきた。祖国防衛のために武器をもって戦うことがその存在意義でありながら、しかしその実行が許されないという矛盾。いや、その存在 自体が憲法という国の理念を解釈によって歪め、強引に作った隙間に押し込められた戦後日本社会の鬼っ子だ。一般市民は誰もまともに顔を向けようとはしな い。本来の任務とは異なる災害出動や雪祭りを除けば、彼らが表舞台において存分に活躍できるのは、まさに怪獣映画の中だけだったと言っていい。だが、その 怪獣映画の中ですら、彼らは敗北を義務づけられているがゆえに存在を許されていたのだし、そもそも念の入ったことに、彼らは長らく「防衛隊」 という仮名で 呼ばれ続けていたのである。その存在は曖昧にぼかされてきたのだ。
 近年に至り、解釈の歪みをさらに押し広げることでなし崩し的に、あるいは憲法改正によって公然と、彼らを陽の当たる場所に連れ出そうという動きが強まっ てはいる。それとともにフィクションの世界でも、自衛隊を描くことはそれがたとえヒロイックな活躍であろうとも、決してタブーではなくなってきている。
 だが、彼らを受け容れるにしろ、あるいはあくまで拒否するにせよ多くの場合、そこでは自衛隊という〈組織〉のあり方が問われるだけで、そこに所属する隊 員という、生身の人間の〈生〉のあり方が問題にされることはほとんどないと言ってよかった。丸腰で戦場に送り込み、あるいは現場の隊員に武器使用の責任を 押っ被せるPKO論議など、その際たるものだったろう(最近も、不審船の立入検査に臨む海自隊員に対して、ライフル弾が近距離から貫通してしまう防弾 チョッキが支給されるという報道があった)。
 このように個人としての顔を剥奪され、依って立つべき足場を宙吊りにされた自衛隊員たちを一個の人間として捉え、居場所を与えようとした小説があった。 それが半村良の『戦国自衛隊』である。

『戦国自衛隊』はその卓抜な着想もさることながら、角川映画化などによって数多い半村作品の中でも、最も人口に膾炙している作品といえるのではないか。
 演習中の自衛隊の一団が本隊から切り離されて、戦国時代にタイムスリップ。上杉謙信の知遇を得て、近代兵器・戦略を駆使して縦横に暴れ回るという筋立て は頗る痛快であるとともに、きわめて「画」になりやすい題材であることは言うまでもない。〈時間〉や〈進化〉といったテーマを、ある意味非人間的(あるい は超人間的)な展開で扱うことが多い半村SFにあって、あくまで人間が生み出すドラマに重きを置いた『戦国自衛隊』は人間くさく、かつ読者が具体的なイ メージを抱きやすい作品だったわけである(その意味では、永井ダイナミックプロの イラストがカバーおよび本文に付された角川文庫版は、残念ながら後に 表紙こそ映画のスチールになってしまったものの、まことに本作にふさわしいものだったと言える)。
 タイムスリップした現代人による過去の攪乱というモティーフは明白な形に限っても、マーク・トゥエインの『アーサー王宮廷のヤンキー』辺りまで溯ること ができる、SFにとってはきわめてオーソドックスな題材だが、不思議なことにそのほとんどは個人レヴェルのタイムスリップにとどまり、『戦国自衛隊』のよ うにある程度の勢力を持った集団によるそれは同作以前には、意味合いの違う時間犯罪物を除けば特に目立ったものは描かれていないといっていい。これについ て、半村良自身はのちに
「とにかく発表を急がねばならなかった」
「この種の作品はアイディア本位で、早い者勝ちだと思った」
「まだ内容的に不十分だと思っても、一番乗りをしたほうがよかった」
「映画評論家から『戦国自衛隊』はこの(映画『ファイナル・カウントダウン』の)焼き直しだといわれても、笑って見過ごすことができたのは、一番乗りをし たおかげだった」
と語っている。
 実際同作以後、日本においてはその影響を免れずに同種の作品を描くことは不可能となってしまったし、また海外では例えば、米原子力空母ニミッツが日本軍 による真珠湾攻撃前夜にタイムスリップするという、件の『ファイナル・カウントダウン』が公開されたのが1980年と、映画『戦国自衛隊』よりもさらに1 年遅いのである。そして、時間を越えた軍事力の激突というコンセプトが日本人にとって、いかに魅力あるものだったかということをのちの――そして現在に至 るまで続いている架空戦記というジャンルに見て取るとき、半村良という希代のストーリーテラーの先覚性には改めて驚かされる。戦国時代に飛ばされた現代の 軍事部隊という設定はシンプルであるがゆえに、後続作品を亜流として退けてしまう原型的な力強さに溢れている。
 実際『戦国自衛隊』という小説は、その知名度や影響力を念頭に置いて改めて振り返ってみれば、意外と短く感じるのではないか。
 初め「SFマガジン」の1971年9・10月号に掲載された同作は、その後'74年の中短編集『わがふるさとは黄泉の国』に収録され、翌'75年のハヤ カワ文庫化の際に初めて独立して刊行された。つまり当初は独立した長編というよりも、むしろ中編として扱われていたわけであり、それが徐々に支持を高めて いった末に、映画化されて大ブレイクしたという印象だろうか。これには先述のように、誰かに先を越されないうちにまず発表しなければならなかったという事 情もあり、だから例えば石上三登志が、角川文庫版の解説でアクションのディテールを描き込んだ映画化を夢想するのも当然と言える。そして、実際に鎌田敏夫 脚本・斎藤光正監督によって'79年に映画化された『戦国自 衛隊』は主演の千葉真一と、彼 が率いるJACに よってアクション場面に力を入れた作品となっ た。
 だが、小説『戦国自衛隊』と映画の間にはさらに、もう一つの『戦国自衛隊』が存在する。田辺節雄による漫画版『戦国自衛隊』である(実は先に紹介した作 者の言葉は、'98年にこの漫画版が世界 文化社から新装刊行された際、あとがきとして付されたものである)。その3つのヴァリアントの間に存在する異同を 見ていくことで、小説版『戦国自衛隊』が内包していたものが浮かび上がってくるのではないだろうか。

 漫画版『戦国自衛隊』は'75年から'76年にかけて、「プレイコミック」に連載された。これは先述のように、原作が独立刊行されたのと時を同じくして おり、比較的早い時期に当たるといっていいだろう。作者の田辺節雄はアクション派の雄・望月三起也の アシスタントを務め、師が『ワイルド 7』連載中に倒れ た際には代筆を執ったこともある。また、外にも矢野徹『地球0年』や 西村寿行の『滅びの笛』『滅びの宴』『蒼茫の大地 滅ぶ』など自衛隊も登場する骨太 な小説を漫画化しており、『戦国自衛隊』のような作品には適材といえる。そして実際、漫画版『戦国自衛隊』は原作のストーリー展開やキャラクターにほぼ忠 実でありながら、原作ではさらりと流されていたディテールを描き込み、さらに原作にはないシーンを随所に追加するなどして戦闘そのものと、隊員たちの群像 に重きを置いた、より男くさく痛快なアクション編に仕上がっている。映画版にも、原作よりこの漫画版に依ったと思しきシーンも多い。
 その映画版『戦国自衛隊』は構成・キャラクターともに、原作を大幅に違えている。原作では全体の3分の2くらいのところに位置する、川中島での信玄との 戦いをクライマックスに置き、そこに至るまでの大半を隊員たちの葛藤や、仲間内での対立を描写することに割いているのである。川中島は当面の目的地・京都 への途上にあるというだけであって、天下統一という原作の大命題はここには感じられない。そして、何より変化しているのは自衛官たちのキャラクターだ。
 ここに登場する隊員たちはその大半が、軍人というイメージからは程遠い。女に会うため脱走する者やそれに付き合う者、銃を捨て百姓になる長髪の隊員や、 いつも尿意ばかり催している小心者、あるいはクーデター計画に挫折した拗ね者など、彼らは軍人としての規律から逸脱しがちであることはおろか、ともすれば 現代において居場所の見つけられない“落伍者”ですらあったと思しき男たちだ。そんな彼らは“漂着”先の海岸でだらだらと無為に時を過ごし、歴史への参画 をなかなか決意することができない。そしてようやく、成り行き上やむを得ず動き出した彼らは覚悟もないまま途端に実戦に投げ込まれ、脅え丸出しでみっとも なく右往左往した挙句ある者は殺され、ある者は何とか生き延びる。そんな彼らが望むのは、ただ現代へ帰ることだけだ。
 そして彼らを束ねる指揮官の伊庭三尉もまた、自らの中に眠る武人の性ゆえ、現代においては生きる場所を見つけられなかった男であり、戦国の世において目 覚め、戦いに取り憑かれた半ば偏執狂として部下たちを強引に滅びへと導いていく。そこにあるのは歴史への挑戦というには程遠い、落伍者たちによる手探り の、痛ましいほど不器用な彷徨だ。したがって原作の要であったタイムパラドックスの問題も、人間的な権謀と裏切りへと姿を変える。
 しかし、漫画を経て映画へと至るこうした変貌は、かえって『戦国自衛隊』という物語が持つ意味を浮き彫りにする。
 先述のあとがきにおいて、半村良は次のように言う。
「小説を書いている最中思い続けていたのは、自衛隊員が気の毒だということだった」
「だから自衛隊員を戦国時代へ送り込み、堂々と戦わせてやりたかったのだ」。
 その言葉通り小説『戦国自衛隊』は、彼ら自衛隊員のために用意された安住の地だ。例えば島田三曹は言う。
「時間かどうか知らないが、俺は運命だと思うんだ」
「(前略)悪い気分じゃなかったぜ。考えてもみろよ。弓矢と槍の世界へこんだけの道具を揃えてのりこんだんだ。誰に遠慮も気がねもなく、ブッ放してなぎ倒 して、やりようによっちゃあ日本を征服することだってできるんだ。男と生れてこの世界が気に入らねえ法はない」。
 あるいは、三等陸尉の階級章をあしらった旗印を指して加納一士が言う
「だから今はとても幸福なんですよ」
「言っちゃ悪いですけど、僕らはせいぜいあんなものでした。道三にならない庄九郎、秀吉にならない日吉丸……つまり歴史上のその他大勢。庶民なんです。そ れがこっちではえらいことをやってのけてる。もといた世界から疎外されたんじゃなく、もといた世界では疎外されていたんです」
 という言葉――ここで語られる心情は、天下統一の野望に向けて突き進む漫画版の隊員たちや、ただひたすら現代へ帰りたがる映画版の隊員たち、あるいは押 し殺していた闘争心の爆発によって滅びへと突っ走る、同じく映画版の伊庭のような激しいものというよりはむしろ穏やかな、まさに「幸福」感とでもいうべき 安らぎを感じさせる。
 だがそれは決して、映画版で伊庭が
「昭和の時代に戻って何になるんだ。ぬるま湯に浸かった平和な時代に戻って何になる。武器を持っても戦うことのできない時代に戻って何になる。それよりも この時代で戦おうとは思わんか。本心のままに生きようとは思わんか。ここではそれができるんだ」
 と語るような意味合いにおいてのユートピアではない。戦国に生きる自衛隊員たちを取り巻く状況は、現代とさして変わらない。彼らが初めて出現した越後に あっては、その桁外れの武力ゆえ、利用されつつも宙ぶらりんの処遇を受ける。そして天下統一に向けて動き出してからは軍事のみならず、技術力や知識によっ て一般民衆の生活にも貢献しながら、しかしその力を恐れた為政者によって封じ込められていく――。
 結局、隊員たちは戦国の世にあっても、社会の中で突出した力を持ち畏怖されながら、その力のために疎外されるのだ。清和源氏の名流《土岐》氏の仮面を被 ることでしか、彼らが社会に受け容れられる術はなかったのだから。その姿は軍隊でないと偽らされ、それでも足りずに牙さえ抜かれる現代の自衛隊員たちの姿 に、うっすらと重なってはこないか。そして終幕に至って、権力に伴う責任を恐れ、権威のみを盾に、強者に実権を与えることで自らの保身を図ってきた天皇家 批判に話が及ぶとき、長い歴史を経てもなお変わることのなかったこの国の体質が、くっきりと映し出される。たとえ時代を移され、天下に王手を掛けようと も、結局彼ら自衛隊員は昭和にいたころと同じ「その他大勢」でしかあり得ないということも。
 にもかかわらず、この『戦国自衛隊』という小説はきわめて幸福な物語である。映画では歴史に叛逆した悲劇の英雄として葬られる《とき》衆だが、原作の彼 らはその歴史=時間の中に、その確固たる居場所=役割を得る。いや、時間の方が彼らを必要とし、呼び寄せたのだ。
 社会に疎外された人間が、それを超越した悠久の時の流れの中に、己の生の存在意義を見出す――それは決して「名もなき庶民には、名もなき庶民の幸福があ るのだ」というような、小市民的なテーゼではない。そこにあるのはむしろ、壮大な時間感覚に満ちた非人間的な――それでいてどこか優しい奇想だ。
 だから、エピローグに至っておそらくは大半の読者が忘れていただろうあるギミックが再び現れたとき、僕たちはこの『戦国自衛隊』が何よりもまずSFで あったことを、ささやかな感動とともに改めて実感するのである。
(2000.6.18 ハルキ文庫)


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冒頭の「イヴェント」とは、木原浩勝氏がロフトプラスワンで行ったもの。
映画版『クレヨンしん ちゃん』はこのあと、『嵐を呼ぶモーレツ! オトナ帝国の逆襲』('01)が公開されて、まさに「子供向けだと思って馬鹿にしてい た ら(とか、『興味がなかった』とか)、意外と深い話で感動」した連中が巷に溢れることになった。だが、個人的にはやはり『温泉わくわく大決戦』がピークだ と思う。それより後は、感動させようというのがミエミエで。野原一家のキャラも違ってくるし。やっぱりバカに徹してこその『しんちゃん』である。
角川文庫版のイラストについては、クレジットはあくまで「永井豪」となっているが、実際には多分石川賢だと思われる。
田辺節雄の一連の原作付き漫画は、僕たちの世代だと秋田漫画文庫版(こんなのとかこんなのとかこんなのとかこんなのとか)かプレイコミック版が馴染み深いが、現在は世界文化社から発売中。とはいえ、品 切れが多いよう な ので、古本屋を回っ た方が早いかもしれない。
ちなみに田辺節雄は、漫画オリジナルの続篇『続戦国自衛隊』を00年から執筆中。
(2005.6.13)



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